きょう初めて大学の図書館で宿題&勉強してきたんだけど、帰り際に急に、「ここにいる人たち、みんな大学生なんだなぁ...」ってしみじみ感じて、彼らより長く生きてきたぶんわたしは何を得たんだろう?なんてことをふと考えた。
はじめは「時は戻らない」という事実に切なくなったんだけど、すぐに、「いや、とは言え10年ちょっとしか変わらないか」という思想になった。(わたしの脳、ポジティブすぎねぇか。)でもほんとに、人生の中の10年なんて一瞬だから、以前の10年に縛られることなく、これからの10年のことを考えても良いような気持ちになった。
そして、「このままこの大学に編入して、高学歴というカードを手に入れようか?いや、既に別の大学を卒業してるんだから大学院から始められるのか?」という、今までに全く無かった考えが、一瞬で生じた。なんというか、この留学期間を経た後、それが何事もなかったかのようにもとの生活に戻ることが、すごくムゴいことに思えてきたのだ。
これは「せっかく語学留学したのだからそれを活かせる仕事したい」ということではなく、なんか、「この語学留学を経て知った”全く新しい自分”の一面を無視して、元の自分に戻って良いのだろうか?」という疑問。
留学を通して、語学を習得(もちろんまだ習得の最中だけど)できたのはもちろんなんだけど、それとは別に、自分でもびっくりするような「新しい自分の発見」があった。それは、「わたしは勉強が嫌いなのではなく、興味のないことを強いられることが嫌いで、むしろ興味があることに関しては前のめりに勉強することができる。」というものだ。
正直、語学習得よりその新事実発見の方が自分にとってよっぽと価値がある。だって、留学前まで30年以上もの間「自分は勉強が大嫌いだ」と思っていたし、だからこそ「わたしは勉強以外のことで評価され生きていくべき!」と思って美術予備校に通って(通わせてもらって)、美大に行って(行かせてもらって)、デザイナーになって、10年間その仕事をしてきたのだ。それなのに「自分は勉強が嫌いだから」という、その前提が覆ってしまったのだから、これは一大事だ。どうしよう。
ひとまず、「どうしよう」という気持ちは置いておいて、「なぜ韓国語の勉強が好きなのか」というところから考えてみよう。理由はいくつかあると思う。
- 韓国語のコンテンツを毎日観る
- かつては「呪文でしかなかった言葉」が「理解できる言葉」に変わる喜びがある
- そしてそれには、勉強した分だけ返ってくる「ご褒美」のような感覚がある。
- 言語のルールみたいなものが見いだせると楽しい
- 例えば、以前は「ただ暗記していた」だけの単語が、実は文法によって変化した単語であり、それを知った以降は、一見「初めて見た単語」である場合でも、該当ルールに則って意味を推測することができる。
- そうすると語彙が一気に増えて、「理解できる言葉(会話やセリフ)」も同様に一気に増える。
- 言語を作った人の意図みたいなのを発見(あくまでも推測だが)できると楽しい
- 似ている文法の「同じ部分」と「違う部分」を整理してスッキリすることがストレス解消になる
もう疲れたから列挙はこの辺にする(すぐ飽きる)。
これらをざっくりまとめると、
- 時間と手間を掛けただけ、確実な見返りがある。
- アハ体験的なやつでアドレナリン出る(モヤモヤがある瞬間にスッキリ解決する感覚がクセになる)
という感じだろうか(すくねぇ〜)。そして、これってつまり、「登山」と同じようなものじゃないか?ということに気づく。
昔から「登山ってめちゃくちゃ疲れて辛いのになんで好きな人いるんだろう?」と疑問だったんだけど、なんかのテレビで「達成感を得るために山に登る」みたいなことを言ってる人がいて、なるほど、と思った経験がある。それと一緒じゃないか。
勉強を始めなければ「わからないよ〜」という苦しみにすら出会わないけど、勉強をすることで「疑問(ストレス)」が生まれ、さらに勉強を進めることで「理解(達成感)」を得られる。まじで登山。「勉強とは登山である」、また新しい発見です。
つまり、「登山」であれ「韓国語の勉強」であれ、まず自分から「苦しみ」がある世界に突入し「苦しみ」から脱出すること、これが「幸せ」であると考えられる。問題なのは、「苦しみ」があるのを知りながらそれに突入することができるほどの「興味深い対象」があること事態が難しい、「苦しみが幸せに変わる保証」がある程度ある状態が稀、というところ。
この「苦しみが幸せに変わる保証」ってのが、「仕事(=業績を上げることが求められる世界)」だと結構むずかしいんだよなと思う。そんな保証があったら全事業が成功することになってしまうが、全事業が成功なんてありえないし(成功する事業があれば、それと同じ分だけ失敗した事業が存在してるはず)。そう、仕事っていうのはそれが嫌なんだ(ただの愚痴)。いや、もしかしてそういうのが嫌で「作り上げることが正義」であるデザイナーになったのか(混乱)?
いやいや、とは言え、今の時代は「デザイナーはただ良いものだけをつくる」だけではお給料は上がらなくて、「業績を上げるために考えてものをつくる」ということが求められる。あ、でもでも、一定数の成功したデザイナーは「その人のデザインである」という事実そのものに価値が発生して、デザインしたものがもたらした結果がどうであれ、需要が増えて価値が上がり、それに伴ってお給料は上がっていく。いやいや、でも、その域に達するまでに、「業績が上がったデザイン」をつくったという実績を生んでいるのだ(当たり前)(混乱)。
つまり、やっぱり、どちらにしろ「苦しみが幸せに変わる保証が無い世界」で一定の期間もがき苦しんだ後に「成果」を得られないと、その先にある「苦しみが幸せに変わる保証がある世界」には行けないのだ。仕事に関しては。
ではわたしは、10年間デザイナーとして仕事をしてきた中(苦しみが幸せに変わる保証が無い世界)で、「業績が上がったデザイン」をつくれたのか、というところ、である。普通に、あるとは思う。ここからは、もはやプレゼン力だ。
「苦しみが幸せに変わる保証」がある世界に少しでも近づきたいのなら、『「苦しみが幸せに変わる保証が無い世界」で一定の期間もがき苦しみ成果を得られた』ということを目に見える形で示さないといけない。そして、それを示せるだけの時間を掛けて戦ってきたものは、今の私にとっては、やはり「デザイン」がぶっちぎり第一位なのだ。結局〜〜。
いやいやいやいや、いやいやいやいや。
この記事の論点は、その「デザイン」を捨てて、「さらに10年の時間を掛けて新しく別の戦いを始めても良いのではないか」だった。
...なんなの、この最低な記事!きょうは秋学期について書こうと思ってたのに!全然書けやしない!もうすぐ秋学期も折り返すんだが。
とりあえず、人生どう転ぶにしろ「プレゼン力(自分をプレゼンする能力)」が必要だということがわかったので、そういうのがうまい人の研究を始めてみようと思う。ばいなら。